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2008年02月18日

折田先生像

って何!?

折田先生像(おりたせんせいぞう)は、京都大学に設置されていた銅像である。京都大学の前身の一つである第三高等学校の初代校長を務めた折田彦市(おりた ひこいち)の業績を讃えるために製作された。しかしその後、派手な落書き(オブジェ化)が相続き、有名になった。

遅くとも1986年には顔を赤くスプレーされ、台座に「怒る人」と落書きされた、その後の姿に比べれば比較的シンプルなバージョンが存在しており、一部で「京大の『怒る人』」として知られていたと言われる。これは比較的長い期間放置されていたが、その後、何者かが赤い顔を青に塗り替え、台座に「怒らないで」と上書きした。これを機に、一連の落書きの連鎖が始まることになる。

最初のいくつかのバージョンの製作には、大学内のある音楽サークルとあるアウトドアサークルとが関与していたことが分かっている。 「怒らないで」の次に、彼らが行った落書きは「歌舞伎の隈取」の意匠であった。これはすぐさま大学側によって消された。その後、合成樹脂による両手をとりつけた「れーにん」、巨大な被せ物による「モアイ」など、初期の何種かのバージョンが同じ製作者グループによって製作された。彼らは「モアイ」を最後に撤退し、特に他の製作者グループとの接触や引継ぎはなかったとのことである。

その後も折田先生像への落書きは一種の文化のように継承され、回を追うごとにエスカレートしていき、一部では銅像アートと呼ばれるさまざまな作品を残した。

赤と黄色に彩られ、頭にカップを乗せたヤキソバンバージョン
肩に自転車を掛け、「私も入ってます!!」と張り紙のされたサイクリング部勧誘バージョン
女性用下着を顔につけ、「フォオオオ」と書き込まれた変態仮面バージョン
全体にダンボールによって作られたモアイ像を被されたモアイバージョン
これに対し、1994年から大学は一旦銅像を清掃し、横に以下のような立て看板を立てて学生に落書きをやめるよう要請した。

折田彦市先生は、第三高等学校の校長として京大の創設に尽力し、京大に自由の学風を築くために多大な功績を残した人です。どうかこの像を汚さないで下さい。 総合人間学部
しかしこの立て看板に対抗して、「この像を汚さないで」と早速落書きされた。以後もアンナミラーズのウェイトレスバージョン、ウルトラマンゼアスバージョン、「お父様、お母様、今まで育ててくれてありがとう。今日、私・・お嫁に行きます」と張り紙のされた花嫁バージョンなど衣装や被り物が数多く制作された。

こうした落書きを受けて、1997年3月、構内整備を機に折田先生像は撤去され、大学の施設内に保管された。
(以上、ウィキペディアより引用)

こんなことがあったんですね!

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2008年01月16日

今これが起こったら…

シャレになりませぬ。

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した海溝型の大地震(関東地震)による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした。

また、関東大震災というと、関東地方を襲った大地震による災害(震災)の総称ともなるが、一般的には、1923年発生の関東大震災を指す事が多く、本項でも1923年の関東大震災について述べる。

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日午前10時頃とされている。

建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破し、建設中だった丸の内の内外ビルディングが損壊。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫も類焼し、多くの貴重な書籍群が失われた。

なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[1]。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

190万人が被災、10万5千人余が死亡(あるいは行方不明)した。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟である。地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴なった火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出したといわれ、更に村も山崩れにより壊滅したという。また、避暑に郊外へ来ていた皇族からも3名の死者が出ており、小田原では閑院宮御別邸が倒壊し寛子女王(17歳)が下敷きとなられて薨去、また藤沢で東久邇宮家の師正王(6歳)が避暑先の別荘の倒壊で薨去、鎌倉では山階宮武彦王妃の佐紀子女王(20歳)が別邸の倒壊により薨去された。

なお、理科年表では、震災後から2005年度版まで、死者数や倒壊件数などの被害を、現在推定される数値よりかなり多い値で掲載していた。これは震災から2年後に総められた「震災予防調査会報告」に基づいた数値であったが、近年になり武村雅之らの調べによって、重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、2006年度版から修正されることになった。
(以上、ウィキペディアより引用)

もうすぐ100年経ちますねー。。

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2007年11月29日

高級車の定義

って何でしょうか。
必死に考えてみました。

メルセデス・ベンツ560SEC(1990年)何を持って「高級」とするのかは個々人や販売されている国や地域での価値観に委ねられており、高級車の指し示す範囲にも明確な定義は存在しない。卑近な例として、北米や東アジアにおいては高級車の代名詞となっているメルセデス・ベンツであるが、実態はバス、トラックを始めとする商業車やタクシー用車両なども数多く製造・販売するフルラインメーカーである。

メルセデスやBMW、ジャガーといったブランドも大衆車メーカー化していることに加え、希少性も失墜しており、何が高級を表す指標かという根源的な問題に関する議論は尽きない。現在では1000万円(日本円換算)以上の販売価格で、各ブランドのフラッグシップモデルのみを指す傾向もある。例:ジャガー=XJ、メルセデス=Sクラス、BMW=7シリーズ、トヨタ=センチュリー、日産=プレジデント、レクサス=LS等。 また、ショーファードリブン(専従運転手付きの車)の性格が強いセンチュリーやプレジデント、マイバッハ等を除外しオーナードライバーズカーの中での比較検討をしている評論家もいる。かつて、高級車の代名詞であったメルセデスやジャガーも、アジア・オセアニア・北米アメリカ地区に対しては一部の富裕層相手ではなく、メルセデスでは大衆路線に切り替えラインナップを増やし低金利クレジット等も展開していることも影響している。

なお、車両区分(セグメント)は従来は大型ほど高級という図式がほぼ該当していたが、セグメントの定義が単に寸法に起因しているため、近年では一部瓦解している。 独自の定義の一例として、ダイムラー・クライスラーの日本法人であるダイムラー・クライスラー日本では550万円以上の価格帯の輸入乗用車を「輸入プレミアムセグメント」と括っているようである。

ゼネラルモーターズの社長アルフレッド・スローンは自動車産業界の歴史を3期に区分し、1908年までの第一期が高価な自動車だけの高級市場、第二期は1920年代までのフォードが牽引した大衆車の時代、第三期がバリエーション豊かになった大衆高級車市場とし、低価格車から最高級車までのあらゆる需要に適用するフルラインシステムを消費者の欲望を駆り立てるための第三期におけるGMの経営方針として採用した。欧州や日本では階級(クラス)が固定されていたが、新興国のアメリカでは階級はなく、経済的、金銭的に成功した人々はその成功を認め合いまた大衆は自らもそうなりたいと成功者に対し賞賛を送った。GMのフルラインは下層階級出身者のいわゆる「成金」でも、金銭的な成功の階段を昇ることが比較的容易な米国型人生を販売戦略に組み入れたものだった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月07日

一寸法師のあらすじ

現在一般に知られているものとそうでないものがあるようです。


子供のない老夫婦が子供を恵んでくださるよう住吉の神に祈ると、老婆に子供ができた。しかし、産まれた子供は身長が一寸しかなく、何年たっても大きくなることはなかった。子供は一寸法師と名づけられた。
ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいと言い、御椀を船に、箸を櫂にし、針を刀の代わりに持って旅に出た。京で大きな立派な家を見つけ、そこで働かせてもらうことにした。その家の娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来た。一寸法師が娘を守ろうとすると、鬼は一寸法師を飲み込んだ。一寸法師は鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吹き出すと、持っていた打出の小槌を置いて山へ逃げてしまった。
一寸法師は打出の小槌を振って自分の体を大きくし、娘と結婚した。ご飯と、金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたという。
御伽草子に掲載されたものは少し話が異なっている。

老夫婦が、一寸法師が全く大きくならないので化け物ではないかと気味悪く思っていた。そこで、一寸法師は自分から家を出ることにした。
京で一寸法師が住んだのは宰相殿の家
一寸法師は宰相殿の娘に一目惚れし、妻にしたいと思った。しかし小さな体ではそれはかなわないということで一計を案じた。神棚から供えてあった米粒を持ってきて、寝ている娘の口につけ、自分は空の茶袋を持って泣きまねをした。それを見た宰相殿に、自分が貯えていた米を娘が奪ったのだと嘘をつき、宰相殿はそれを信じて娘を殺そうとした。一寸法師はその場をとりなし、娘と共に家を出た。
二人が乗った船は風に乗って薄気味悪い島に着いた。そこで鬼に出会い、鬼は一寸法師を飲み込んだ。しかし一寸法師は体の小ささを生かして鬼の目から体の外に出てしまう。それを何度か繰り返しているうちに、鬼はすっかり一寸法師をおそれ、持っていた打出の小槌を置いて去ってしまった。
一寸法師の噂は世間に広まり、宮中に呼ばれた。帝は一寸法師を気に入り、中納言まで出世した。

解説
現在伝わっている話がいつ成立したかは未詳であるが、室町時代後期までには成立していたものとされる。「小さな子」のモチーフは、日本においては日本神話のスクナヒコナがその源流と考えられる。

御伽草子の一寸法師が有名になったことで、各地に伝わる小さな人が出てくる民話や伝承も「一寸法師」と呼ばれるようになった。

なお、一寸法師が椀に乗った場所は「難波の浦」とされ、そこから京へ向かって漕いで行ったが、それは現在の道頓堀川だとする説がある。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年10月17日

滋賀大:「士魂商才」の取り組みをするんだってさ

士魂商才って何って感じでしょ。

それを今から説明するね。

滋賀大は13?28日、彦根キャンパス(彦根市馬場1)をパビリオンに見立て、「士魂商才館」と銘打った公開行事を行う。西洋建築の講堂などを会場に彦根の近代史や景観などをテーマに講演会やシンポジウムが行われる。いずれも参加無料で、大学側は「気軽に参加を」と呼び掛けている。

 「国宝・彦根城築城400年祭」に合わせ、彦根城のすぐ近くにある同大がキャンパスの魅力を知ってもらおうと、企画した。「士魂商才」は同大の前身の彦根高等商業学校の建学理念で、武家の教養と商人の社会性を重んじる精神を掲げた。

 期間中の午前10時?午後5時、講堂ホールで、経済学部の歴史を紹介する写真展▽彦根高商時代のアジア修学旅行や学校生活を画像で紹介するコーナー▽修身や道徳の教科書の展示▽彦根藩校「弘道館」の蔵書などの展示??などが行われ、学内の散策も楽しめる。

 講堂では、13日午後1時半、阿知羅隆雄教授が「建学の精神『士魂商才』」と題して講演。20日は午前10時、「彦根景観シンポジウム」があり、西川幸治・前県立大学長が「彦根城の世界遺産登録の課題」をテーマに講演するなど期間中の土日は講堂で講演会がある。